⑥甲申クーデター後~日清戦争
1884年末の甲申クーデター後、各国の朝鮮における状況は次のようになりました。
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<日本>
1885年、李朝との間に結んだ「漢城条約」により李朝から謝罪と賠償を受け取るも、同年その後に清国と結んだ「天津条約」により、朝鮮から軍を引くこととなった。諸外国の東アジア進出の動きもあり、清と日本で朝鮮を共同管理する旨を申し出るが、清はこれを拒否。日本の朝鮮半島での影響力は弱化していった。
<清>
天津条約により日本と同様朝鮮から軍は引いたが、袁世凱を「朝鮮総理交渉通商事宜」に任命し、李朝の政治全般を監視。更に清国に幽閉中だった大院君を帰国させ、ロシアへ接近をはかる閔氏一族を牽制させた。干渉強化と同時に対日軍備の拡充を行い、朝鮮半島での影響力はむしろ強くなった。
<ロシア>
李朝との間で1885年10月「朝露修好条約」を批准、1888年「陸路通商条約」締結。李朝の新たな事大先候補として求められ、本格的に東アジアへの進出を狙う。
<イギリス>
(「カツラの葉っぱ 大好き!」ブログより)
1885年から巨文島を占領していたが、清がロシアとイギリス両国に働きかけたことにより、1887年巨文島より軍を撤退させた。
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このような状況の中、日本は自国の利益線である朝鮮半島の保護のため、清国と李朝を刺激しないようにしながら、対清戦争に備えて軍備増強にあたります。
(金玉均暗殺)
1894年3月、甲申クーデターの首謀者の一人であった金玉均が、上海で李朝の刺客に暗殺されました。その死体は切り刻まれ、さらしものにされたといいます。そして5月に、金玉均の実父である金炳台が絞首刑に処せられます。
朝鮮を真の自主独立の国として改革を目指した急先鋒が、崇高な志も空しくここに最後を遂げました。
そしてその5月に、朝鮮内部では甲午農民武装蜂起(東学党の乱)が起こります。
(東学党とは)
東学は、1860年に崔済愚が起こした新興宗教であり、儒教・仏教・道教を合わせた独自の教義を持ち、「西学」即ち「キリスト教」に対抗してその教義を「東学」と呼び、その東学を信奉する者たちのことを「東学党」と呼びました。
東学党はその教義により「斥倭洋倡義(せきわようしょうぎ 日本と西洋を斥けて朝鮮の大義達成を唱える)」を掲げた運動を行っていたが、農民の疲弊を背景に、次第に横暴な地方官吏の徴税に対する農民闘争の形へと移行していきました。
一万名以上に膨れ上がった農民軍は政府軍を打ち破り、全羅道の道都である全州を占領するまでになります。
これに対して李朝は清軍へ鎮圧を依頼。清は天津条約に基づいて日本へ派兵の事前通告を行い軍を派遣。それを受けて日本も事前通告を行い、日本公使館と慰留民の保護を理由に派兵しました。
東学党の乱自体は、李朝政府と農民軍との間に和議が成立して終了しましたが、李朝政府の日本と清両軍の撤退の要請に、日本は「内政改革を行わなければ内乱が再発する」ことを理由に拒否し、李朝に「清軍の撤退要請」と「清との宗属関係を規定する朝清通商貿易章程を破棄すること」を要求しました。
李朝政府が期限内に回答しなかったため、7月23日、日本軍は漢城城内に侵入して王宮を占拠、国王に大院君を執政とする詔勅を出させて閔氏一族を政権から追放しました(袁世凱は日本軍が撤退しない姿勢を見せた時、密かに漢城を脱出して清に帰還していました)。そして日本海軍が牙山湾沖で清国軍艦を砲撃して「日清戦争」が勃発します。
戦争は各地で日本が勝利を収め、1895年4月に清国との間で「日清講和条約(下関条約)」が結ばれます。
(日本が清より得た領土 しばやんの日々ブログより)
(日清講和条約(下関条約)第一条)
清国は朝鮮国が完全無欠なる独立自主の国であることを確認し、独立自主を損害するような朝鮮国から清国に対する貢・献上・典礼等は永遠に廃止する。
また、上記の通り条約の第一条によって、朝鮮を「独立自主の国」とし、中国と朝鮮の宗属関係を廃棄すると宣言されたことで、ついに朝鮮は独立国としての一歩を進めることが出来ました。
⑦三国干渉~大韓帝国成立
少し時を遡って政治面を見ていきます。
1894年7月甲午政変によって誕生した金弘集内閣は、各方面の制度・体制の改革を推し進めていきました。国王高宗や閔氏一族、大院君派官僚等から圧力を受けながらも、第二次金弘集内閣は更に近代化を推進していきます。
しかし、下関条約締結直後に「ロシア・ドイツ・フランス」の三国によって、日本が戦果として得た遼東半島の清国への返還を要求され、日本はそれに屈しました。
(歴史年代語呂合わせブログより)
その影響で第二次金弘集内閣は崩壊、改革の構想が雨散霧消してしまいます。急速に親露派が台頭し、第三次金弘集内閣では、閔氏勢力が権力を奪回、開化派はほとんどが退けられてしまいました。
著者である呉善花氏によると、この改革が成功しなかった理由は、国王がそもそも法的な制限を受けない最高権威として伝統化されていたため、改革の内容を有効に実現することが出来なかったことを指摘しています。加えて、李朝側が党派対立ばかりに終始して改革推進能力に欠いていたこともあり、更に日本側が朝鮮保護国化の意図をあらわにしてきたため、開化派ですら日本の改革案の遂行を妨害するようになっていた、という事などがあるとのことです。
閔氏一派ら親露派は、新たなる事大先としてロシアとの接近を深め、日本主導の改革が完全に手詰まりに陥った状態で、1895年9月、駐朝大使が井上馨から三浦梧桜陸軍中将に交代します。
(三浦梧桜陸軍中将 1847~1926)
翌月10月8日、日本軍守備隊、領事館警察官、日本人壮士、朝鮮親衛隊、朝鮮訓練隊、朝鮮警務使らが未明に王宮へ侵入し、警備を打ち破って王宮を占拠。その騒ぎの中で閔妃は斬殺され、遺体は焼却されました。これを乙未事変(いつびじへん)といいます。
乙未事変の首謀者は、大方三浦中将だという説が有力ですが、ともかくもこれによって閔氏一族は政権参与への道が絶たれ、親露派の官僚たちを排除し開化派中心の第4次金弘集内閣を発足させることが出来ました。
しかし、「国母」である閔妃を殺害して打ち立てられた親日政権による近代化は、「衛正斥邪」を旨とする守旧派にとって、許しがたい伝統破壊行為であり、自分たちの将来の没落が明らかであった地方両班や儒学者たちは、農民たちも巻き込んで義を持って戦う「義兵」として、武装蜂起を各地で拡大していきました。
そのような状況の中、1896年1月、王宮の警護が手薄になった隙をついて、親露派とロシアが手を組んでクーデターを起こしました。そして国王をロシア公使館内に移して国王親政を宣言させ、開化派であった金弘集らは殺害されたり捕まって流刑に処せられたり、日本に亡命したりして壊滅させられ、ここに日本主導の政治改革は終わりを告げてしまいました。
こうして日本の影響力を完全にシャットアウトすると同時に、ロシアに事大することで李朝は大きく権威を失墜させました。国王と政府が他国の公使館に居続けると言う不自然な状態に対し、王宮への還御を求める声が日増しに高まり、1897年2月20日、国王高宗はロシア公使館から出て王宮へ還り、その8月に年号を「光武」と改め、10月12日に皇帝即位式を挙行して国号を「大韓」と改めて、「大韓帝国」の成立を宣布しました。
(大韓帝国国旗 1897~1910)
<私自身の感想>
うーん、正直よく分からないタイミングの建国ですね…。国内統一したとか、横暴な前国王を倒したとか、こう何か一つの節目が付いたところで「さあ、建国だ!」というのが最もすっきりする形だと思うのですが。権威が失墜しきっている時に建国とは…。
ただ思うに、当時の状態はロシアに事大しているとは言え、朝鮮はずっと中国に事大していた歴史もあって余り気にならなく、「横暴な清、小うるさい日本、国王である自分を蔑ろにして好き勝手していた閔氏一族や開化派官僚たち」が一掃されて、初めて国王として何かを行おうというタイミングだったのかなとは思いました。いつもいつも周りの者達に翻弄されてきましたからね。もちろん、国王自身に自主性が足りなかったということもあるでしょうが。
さて、「大韓帝国」はこの先どうなっていくのでしょうか…
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