北朝鮮・韓国 朝鮮の歴史

「韓国併合への道完全版」を読んで⑶(閔氏勢道政治~甲申クーデター失敗)

投稿日:2017年11月2日 更新日:

前回に引き続いて、朝鮮半島の近代の歴史を見ていこうと思います。

③閔妃一族による勢道政治

外戚の専横を招く恐れがないという大院君の見立ては完全に外れ、1873年、閔氏一族によって大院君は失脚、そして閔氏一族による勢道政治が復活することとなりました。

大院君派の者達はことごとく政権の座を追放され、閔氏政権はそれまでの復古主義・鎖国攘夷政策を改めて、開国政策へと方向転換しました。そして表面的な形式にこだわる朝鮮の態度に業を煮やした日本側は、1875年、艦隊による発砲演習による示威行為、更には江華島への無断侵入を行い、朝鮮を威圧しました。

結果、1876年に「日朝修好条規」を締結。ついに開国へと進み、李朝は日本や清国へと使節や留学生、視察団などを活発に派遣し始めます。

<政治への影響>

・大院君派を政権から追放。閔氏一族の勢道政治開始

・閔氏に協力した官僚の多くが大院君の復古主義に反対だったため、開国政策へと転換

・活発に使節や留学生を送り、国際情勢の適切な情報収集を行った

・形ばかりは近代化したが、清国との宗属関係はそのままの主体性のない開国政策だった

・開化派の中でも朝鮮を一つの独立国とすることを目指す、金玉均らの「独立党」と言われるグループが発生した

<外国との関係>

・日本に引き続き、アメリカと「米朝修好通商条規」、フランス、ロシア等各国とも通商条約を結んだ

<日本との関係>

・1876年「日朝修好条規」締結

・1876年から1882年にかけて日本へ修信使、視察団等を数回に渡って派遣

④旧軍兵士の反乱(壬午の軍乱)~清国の内政干渉強化

1881年、李朝は日本からの勧めで近代的な小銃部隊の編成を行い、その軍を「別技軍」と名付けて新しい装備を配布し、訓練を施して王直属の親衛隊として取り立てました。

それに対して従来からの軍卒、旧軍兵士たち二千数百名は劣悪な待遇下に置かれていたため、理不尽な処罰をきっかけとして1882年に漢城(現在のソウル)で反乱を起こします。(壬午の軍乱)

元々、形ばかりは近代化したものの、閔氏一族による勢道政治は汚職の横行、租税の横領、民衆からは厳しく税を取り立てる等、腐敗しきっていました。それに不満を抱く下層市民たちや別技軍←?謎の参加)までもが反乱に加わり、閔氏系の高級官僚や多数の日本人を殺害し王宮を占領しました。

そして軍兵たちの支持もあり、この機に乗じて大院君が政権の座に返り咲き復古政策を推し進めようとします。

反乱被害に対する日本側の賠償要求が突き返されたこともあり、日本側は軍備を整え始めましたが、閔氏側が清国に調停のための派兵を依頼し、日本と清の協議の結果、清は大院君を捕えて天津へ連行、反乱兵たちを鎮圧し隠れていた閔妃も王宮へ戻り、再び閔氏一族が政権を握りました。

そしてこの事件を機に、日本、朝鮮、清国それぞれの対外政策に多大な影響が発生します。

<政治への影響>

・軍乱によって一時的に大院君が政権を奪取し、復古政策が推し進められたが、清国の介入によって捕えられ、天津へ連行。政権はすぐに閔氏一族の手に戻った

・清によって首都漢城が軍事制圧下に置かれ、不平等条約(清国朝鮮商民水陸貿易章程)の締結がなされた

閔妃が「王宮に無事戻る」と閔妃に予言した女を巫女として優遇し、王家の福運を祈祷する祭祀を行わせるようなった。莫大な国費を浪費したため李朝は財政難に陥り、その打開のために「悪貨の鋳造」が横行、またも庶民に多大な負担を負わせた

・清国の干渉強化によって、李朝は「親日開明政策」から「親清政策」へと大きく転換し、清につき従って近代化を推進しようとする金弘集らと、清からの独立を目指す近代化を唱える金玉均ら独立党の二つに開化派は分裂した

ちなみに金玉均は、何度も日本に訪れ、福沢諭吉ら多くの偉人たちから学び、「独立・自主の真の意義」を悟ったと言われている、独立党のリーダー的存在でした。

<外国との関係>

・清国との間に不平等条約を結んだため、内政、軍事、外交などで大きく干渉され、朝鮮国内では中国軍が略奪、暴行等傍若無人なふるまいを行っていた

<日本との関係>

・日本との間では「済物浦条約」を締結し、日本軍の朝鮮駐留を認めた。日本軍は規律正しく行動し、中国軍のような振る舞いは行っていなかった

⑤金玉均ら独立党のクーデター(甲申クーデター)

(金玉均 1851~1894)

閔氏政権の腐敗や、清国に事大し国家の真の独立を目指そうとしない事大党との軋轢もあって、金玉均ら独立党は次第に圧迫され孤立状態に陥っていきます。

また、清が朝鮮に対する干渉度を強めたため、日本側は対朝鮮政策に慎重になっており、金玉均と約束していた借款などの援助も実現に至りませんでした。

ところが1884年、清がフランスとベトナムをめぐって対立、「清仏戦争」が勃発し清国の戦力が分断されたのを機に、日本政府は再び対朝鮮政策の方向を変え、金玉均は朝鮮公使の竹添さらには福沢諭吉、井上馨外務卿らからも支援の意志を受け取り、加えて諸外国はクーデターには関与する気がない事、国王高宗の暗黙の承諾を得るなどして、金玉均は決起を決意します。

そして同年12月、郵政局開局の祝宴を利用してクーデター(甲申クーデター)を起こし、王宮を占拠。国王一家を擁して新政府の樹立を宣言するものの、袁世凱率いる清国軍の介入によって国王一家は確保され、新政府の成立は頓挫、金玉均と竹添公使は日本領事館へ退却し、金玉均ら独立党の面々は日本へ亡命することとなりました。クーデターは失敗に終わりました。

この後1885年1月に、日本と朝鮮の間で「日朝講和条約(漢城条約)」が結ばれ、また4月には日本と清国の間で「天津条約」が締結されました。この時日本政府側には、朝鮮公使の竹添と独立党との関係の真相究明を避けるため、条約締結による交渉で追及を免れる狙いがありました。

そのため、朝鮮側の賠償関係は比較的軽いものとし、日本公使館が焼き払われ多数の日本人が虐殺されたことにも大した抗議をせず、条約内容に沿って清国と日本が互いに朝鮮半島から軍を引く、ということで言うなれば「引き分け・痛み分け」の形で決着が付き、クーデターは両国と関係の無かったものとして真相は闇に葬られることとなりました。

この後李朝の政権は親清・事大主義の者達で固められ、清は袁世凱を「朝鮮総理交渉通商事宜」に任命して一層李朝への内政干渉を強めました。

一方日本は、イギリスの巨文島の占領やロシアの南下の動きを見て対朝鮮政策をまたも大きく転換します。独立党によるクーデターが失敗に終わり、もはや李朝の独立国家への発展は無いと見た日本は、日本と清で李朝を共同管理し、西洋列強の進出に対抗していこうと清に打診しますが、清はそれを拒否しました。

また政権回復を狙う閔氏一族は、横暴な清国に嫌気がさし、また日本も頼りにならないと考え、今度は世界最強とも言われたロシアの軍事力に依存しようと画策するようになりました。

こうして朝鮮をめぐって、様々な国や派閥の思惑が交錯し、事態はより一層混迷な状況へと向かっていきました。

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<甲申クーデターにおける日本政府の対応の謎>

(竹添進一郎 1842~1917)

本書によると、甲申クーデター時の日本側の対応に、何点か腑に落ちない所があったと書いてあります。まとめると、

1884年

11月7日 竹添公使は、独立党の金玉均に対して、クーデターの日本支援の同意を既に与えていたとみられる。

11月12日 にもかかわらず、竹添公使はこの日付で、日本政府に対して朝鮮政策案の甲案、乙案の二つを建議し、日本政府の指示を仰いでいる。その内容はと言うと、

 甲案:独立党を扇動して内乱を起こし、王宮を守護すると言う名目で日本公使館の兵を出動させる

乙案:清国と事を構えることなく、朝鮮問題は成り行きに任せる。但し閔氏事大党の勢力が増しており、それに対する指示を頂きたい

というもので、先に独立党へ日本の支援を確約しておきながら、後から政府に対応の方向性を建議しているところが謎です。更に、この竹添の建議に対して、クーデター勃発までに日本政府は全く指示を与えていません。

11月28日 竹添の建議が日本政府に届いたとき、井上馨外務卿は出張で東京におらず、伊藤博文参議と吉田清成外務大輔が協議し、乙案(つまり様子見)を採用するという訓令をこの日付で出した(井上もこれに12月3日付で同意)

ところが、なぜか日本政府はこの訓令を電報や電信等で即座に竹添に伝えず、のんびりと船便で送り、竹添公使の手元に届いたのはクーデターの真っ最中12月6日でした。井上外務卿は竹添公使に指示を与え、秘密裡には福沢諭吉を通して、金玉均ら独立党の支援に積極的であったのに、クーデターの決行日を知らなかったとは考えにくいのです。

ならば、清仏の和議が成立し、日本の対朝鮮政策の方向性が変わった時点で、なぜ井上は「クーデターの中止」を竹添に迅速に伝えなかったのか。これが第二の謎として残ります。

<呉善花氏の推論>

著者である呉善花氏は、日本政府の不可思議な対応についてはこう推論しています。

伊藤博文も吉田清成も伊藤巳代治も、また彼らだけではなく恐らくは他の元勲、閣僚たちも、井上が竹添公使にそこまでの指示を与えて彼を動かしていたことを知らなかったのではなかろうか。井上が留守の為に、伊藤と吉田が竹添への訓令を作成し、しかものんびりと船便で送ったのも、そのためではなかろうか。

つまり、朝鮮における甲申クーデターは、日本政府や竹添公使と言うより、むしろ井上馨外務卿の独断専行で行われた風合いが強いのではないかという事です。

ただ、ある資料によれば、当時は電報が東京と長崎、長崎から釜山までしかなく、ソウルまで後は船便と陸路連絡で日数がかかり、竹添公使は政府の対朝鮮政策が変更されたのを知る前に、クーデターに加担してしまった、という可能性があるそうです。

しかしそれにしても、11月28日付で出した訓令が12月6日には竹添公使の元に届いたという事は、8~9日で連絡は可能だったわけで、出張中の井上とはそれこそ電報や電信で協議を図り、もっと素早く訓令を出していれば、クーデター前に竹添の元に届いたのではないかと私は思ったりもします。

(井上馨 1836~1915)

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