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久しぶりに書きたいことが出てきたので投稿します。今回は人の内面的な話に関してです。
見出し
努力しているのにうまくいかない…
ずっと努力しているのに、全然人生がうまくいかない…そういう風に感じている人っていると思います。
とにかく頑張ればなんとかなる、と思って努力して生きてきたのに、気が付いてみると自分には何も残っていない…収入、地位、親友、恋人、格好いいブランド品の所持等、何一つ自分の思い通りになっていない。
なぜそのようなことが起こるのでしょうか?
今回の記事では、その事の原因と考えられる一つのパターンについて書きたいと思います。
その原因の一つは「いい顔症候群」
人生がうまくいかず、何も残らない人の傾向の一つに、「いい顔症候群」というものがあるのではないかと思います。
この「いい顔症候群」というのはどんなものかと言いますと、
自分以外の人間(親など肉親も含む)から、自分に「関心を向けられない・愛情をもらえないという恐怖」が心の底にあることで、自分以外の人間に対して、常に相手の要望に応えて相手の関心や愛情を得ようとして無理をしてしまう性格傾向のことです。
ただ、普通に相手を気遣って「いい顔」をする場合というのは、誰にでもあると思うんですよ。
「いい顔症候群」の場合何が違うのかと言いますと、症候群というぐらいだから、本人が「自分以外の人間に対して無理をしている」ことに気付かず、自然に無理をしてしまう所です。
こういう人は、自分が無理をしていることに気付いていないので、「そんなことまでして大丈夫か?」と聞くと、本気で「大丈夫」と答えます。むしろ積極的に「全然大丈夫」等と言いだします。
これは、嘘をついているのではありません。
自分が相手の要望を断ることで、「相手からの関心が得られなくなるんじゃないか、相手はもう自分を愛してくれないのじゃないか」、という恐怖の方がはるかに大きく、その恐怖による不安を打ち消すために、このような答えを返さざるを得ないのです。
それほど、このような人の心の底にある寂しさというのは、強大なのです。
そしてその、言うなれば「見捨てられ恐怖」に引っ張られて、当人は他人の要望を受け入れるために無理をします。他人からの関心を失うのが恐ろしいので、自分に出来ないことまで「出来る。大丈夫」と言い張ります。
この「出来る。大丈夫」というのは、例えばアスリートが自分の競技に対してたゆまぬ研鑚を積み、その練習量に裏打ちされた自信としての「出来る。大丈夫」とは全く質が違うことは言うまでもありません。
何より第一歩として、見捨てられ恐怖から自分に無理に言わせていることが大問題なのです。
先のアスリートの例えで状況を変えれば、そのアスリートが属する独裁国家が国家の威信の為、そのアスリートに「次の大会で優勝しなければお前を含め一族郎党処刑する」と決定したとします。
この状況でそのアスリートは競技の練習を楽しんで行えますか?
体調だの、選手生命がどうだの言っていられますか?
その次の大会で優勝することに限界を超えて打ち込み、その後の事なんてどうなるか考えられませんよね。
何とか優勝して事なきを得たとしても、無理がたたって体を壊し選手生命が絶たれるかもしれないし、何よりそんな恐怖で縛られながら競技を続けたいとは思わないでしょう。
これと同じことが「いい顔症候群の人」にも言えるんです。
この人は「他人からの関心を失うという恐怖感」に追い立てられて、自分に無理をさせ他人の要求の犠牲になります。
しかしそうやって無理を続けていると、心の中で反発と怒りが蓄積します。(本人はこれを直視できないので、何らかの違和感という形で少しずつ表出してきます)
その蓄積された反発と怒りが限界に来ても、見捨てられ恐怖はとても強いので、それらを相手にぶつけて解消したい思いと、相手の関心を失いたくない恐怖のジレンマによって苦しみ、結果全てを無視し現実逃避をしてかかわりを断つ、という行動に出ます。
これをしてしまうと、如何に今まで自分が相手の為に無理を聞き、犠牲になってあげていたとしても、一発で信頼関係が崩壊し、今までの犠牲も全てが無駄という結果を招きます。
つまりですね、「いい顔症候群」の人は、他の人間よりも無理をして努力し、相手の犠牲になったにもかかわらず、最終的には人間関係崩壊、感謝もされず、むしろ見下げられるという何の救いもない結末を迎える事になるのです。
こんな馬鹿げたことがあっていいものでしょうか!?
このパターンの全ての元凶は、「見捨てられ恐怖」
全ては、心の底に巣食う「強烈な寂しさ」から生まれる、愛情・関心を失うかもと思う「見捨てられ恐怖」から、自分を犠牲にして無理な努力をしてしまうことが原因なのです。
「いい顔症候群」の人というのは、周りにいる人間たちから常に、「自分の要望に応えろ」と脅迫されているようなものなんです。
だから当然、周囲の人間たちのことは本心では嫌いです。自分に要求を押し付けてくる存在でしかないのだから。
そして自分が他人の要望に応えることに疲れ切ると、その段階で姿を消し、全ての関係を断ち切ってしまいます。後には何も残りません。
なぜそんなに見捨てられることが怖いのか
いわゆる普通の人たちにとっても、人から無関心な態度を取られたり、見捨てられたりする事は気持ちの良いことではありません。
しかし、「いい顔症候群」の人たちとの違いは、それらの態度が一時的な一過性のものであり、本人も相手もそういう事は意識できているという点です。
「いい顔症候群」の人たちは、相手の態度がどうとかではなく、自然に見捨てられ恐怖を感じ、相手の犠牲になろうとしてしまいます。
問題はここですよ。なぜ「自然に」そのような態度になってしまうのか。
「いい顔症候群」の人たちは、長い間「言う通りの人間にならないと見捨てるぞ!」と生きていく上で重要な人物から脅され続けてきたのです。だから、そのような考え方が自然になってしまっているのです。
あらゆる人間に対してそれが自然な接し方になってしまうほど、卑怯で小狡い人間に操作されてきたのです。
それは誰ですか?
「いい顔症候群」だと自分で思う人は、過去を遡って考えてみてください。
多くは、「時間と愛情をかけて信頼関係を育む」ことよりも、「寂しさによる『見捨てられ恐怖』を与えて自分の都合の良いように相手を操作する」、という楽な道を選んだ人間達の姿が浮かび上がるはずです。
浮かび上がらなくても構いません。そのような人間に操作されてきたという事は、現在のあなたが「いい顔症候群」であるということが証明しています。あとはそれが誰であるかを考えるだけです。
「いい顔症候群」の人間はどう生きればよいのか
①まず努力して生きてきたのにうまくいっていない場合、「いい顔症候群」ではないか疑ってみる
②自分が「いい顔症候群」だと気付いたら、無意識に他人の要望に無理して応えてないか考えてみる
③他人の要望に無理して応えていることに気付いたら、他人の要求に応えたいと思う自分を意識し、逆に断る練習をする
④自分に出来ないことを断ることに慣れてきたら、今度は自分の要求を聞いてもらう練習をする
⑤それも慣れてきたら、人の要望を聞くことと、自分の要望を聞いてもらう事のバランスを保つことを考えてみる
この修正のステップの中で最も難しいのは、③の「人の要望を断る練習」だと思います。
「いい顔症候群」の人は、人の要望を断る時、激しい「見捨てられ恐怖」が襲ってくるからです。
しかし、どんなに苦しくても「いい顔症候群」から抜け出さなければ、最終的に何も残らず更に寂しい人生を送ることになってしまうと断言できます。
ですから、目の前の一時の苦しみに負けず、過去からの呪縛に捉われず、「いい顔症候群」から脱却して自分が主体的に選択する人生を送られるようになりましょう。
もちろん嫌な事や苦しいことは完全にはなくならないでしょう。
しかし、その中には心から楽しいと思える事、心から好きだと思える人が必ず現れるはずです。
あなたの人生はあなたのものです!
誰にも主導権を渡してはなりません!
それこそが、あなたが必要としている努力なのです!
お互い頑張りましょう!
少し関連した内容として、セイラさんという方がyoutubeに投稿している『「舐められる優しさ」と「慕われる優しさ」の違い』という動画の紹介記事もあります。よろしければどうぞ。
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[…] ついでに、私も触発されて「努力しているのにうまくいかないパターン」ということで考察してみました。よろしければどうぞ。 […]
[…] また、なぜ境界線をはっきりと持つことが出来なくなるのかを、以前の記事「努力してもうまくいかないパターン」で出てきた、「見捨てられ恐怖」を元に考えてみたいと思います。 […]
[…] 「強烈な執着心の元にあるもの」ということで、以前書いた記事、「心の境界線を持つことの大切さ」、「努力しているのにうまくいかないパターン」を参考にしながら考えてみたいと思います。 […]
[…] ここにもやはり、以前の記事(「努力しているのにうまくいかないパターン」)で書いた「見捨てられ恐怖」の悪影響があると思います。 […]
[…] 「強烈な執着心の元にあるもの」ということで、以前書いた記事、「心の境界線を持つことの大切さ」、「努力しているのにうまくいかないパターン」を参考にしながら考えてみたいと思います。 […]