北朝鮮・韓国 朝鮮の歴史

「韓国併合への道完全版」を読んで⑸(大韓帝国成立後~韓国併合)

投稿日:2017年11月14日 更新日:

1897年10月、朝鮮国王高宗は皇帝に即位し「大韓帝国」を成立させました。

先の「日清戦争」終了時に結ばれた「下関条約」によって、朝鮮はすでに清国との宗属関係を断っていたので、何者の臣下でもない「皇帝・高宗」となり、その治める国だから「帝国」と名乗った訳ですね。清の柵封体制下であることを示す「迎恩門」や、「大清皇帝功徳碑」を倒して「独立門」が建立されたのもこの時でした。

しかしその存立期間は1897年~1910年のわずか13年程度のものでした。そこにはどのような歴史の流れがあったのか、見ていきたいと思います。

 

⑧大韓帝国成立後~日露戦争

大韓帝国は、その成立の過程から、当然の如く「親露派」政権でした。

ただ、その成立前から各国間で様々な取り決めが成されており、1896年、日露間では「山縣-ロバノフ協定」が結ばれ、両国の朝鮮半島内における利権などを承認し合い、清露間では「李鴻章-ロバノフ秘密協定」が結ばれ、西シベリア鉄道(満州横断鉄道)の建設権利をロシアに与え、日本に対する攻守同盟を両国間で取り決めました。

そして、李朝政府はロシア政府の援助を取り付け、国王の保護やロシア人顧問団の派遣等を約束していました。これによって今までいた日本人武官・顧問が解任され、朝鮮保護国化という目的を持つ日本は、ロシアを排除することの必要性を強く感じることになりました。

また、1896年~1899年の間、清国は列強諸国によって領土・権益を次々と割譲され、中でもロシアは、三国干渉によって日本に手放させた「遼東半島の旅順・大連」を租借地とし、旅順に基地を作る等着々と満州への進出を推し進めていきました。冬でも凍結しない「不凍港」が手に入ったため、ロシアは大韓帝国への関心を失い、1898年3月までに全てのロシア人顧問団が韓国から撤退したと言われています。

(旅順・大連の位置 「大連紀行」より)

そして翌月の4月に日露間で「西・ローゼン協定」が取り交わされ、「両国の韓国への内政干渉を控え、軍事・財政の顧問を送る時は両国で事前に承認が必要とし、韓国における日本の商工業の発展の妨害をしない代わりに、ロシアの旅順・大連の租借を暗に認める」、という内容が取り決められました。

そして列強諸国によって清国への侵犯が進んでいく中、1900年6月「義和団事件(北清事変)」が発生しました。

<義和団とは>

元々は山東省のある武術組織が、キリスト教の教会を襲撃し、その武術流派全体に迷惑が及ぶのを避けるため「義和拳」と改名したのが始まり。他の武術組織でもキリスト教と摩擦を起こすものが多数あり、それらの団体や流民・難民たちが次第に集結して「義和団」と呼ばれるようになりました。

義和団は「扶清滅洋(清を扶(たす)け、西洋を滅する)」をスローガンとして掲げ、外国人や中国人キリスト教信者はもとより、舶来物を扱う商店、果ては鉄道・電線にいたるまで攻撃対象として暴れまわっていましたが、そのスローガンと相まって列強諸国に対して苦々しさを感じていた清朝は、取締に手心を加えることになり、それもあって義和団の横行はとどまる所を知りませんでした。

義和団による一大暴動や、清国の列強諸国への宣戦布告などもあって、「イギリス、アメリカ、ロシア、フランス、ドイツ、オーストリア=ハンガリー、イタリア、そして日本」の八か国連合軍が出動し、暴動は鎮圧されました。

しかし、ロシアは義和団の鎮圧が終了してもなお満州に軍隊を駐留させ、事実上の占領状態を続けました

(満州の場所 「賢者の説得力」より)

ロシアの南下に対して危機感を持っていたイギリスは、1902年1月に日本との間で「日英同盟」を締結してロシアに対抗します。

清国からもロシアへ満州からの撤兵を強く求めますが、ロシアは結局完全には撤兵せず、逆に韓国との国境に防御線を構築する等増強を図ってきました。そのため1903年8月、日露協商会議が開かれ日本がロシアに撤兵を要求しますが、ロシアはこれを拒否し、対案として日本に北緯39度線で韓国を分割し、それぞれの勢力下におくことを提案しますが、これを日本は拒否します。最早語るに及ばず、1904年2月6日、日本はロシアへ国交断絶を通知し、その翌々日の8日、旅順港のロシア艦隊に日本海軍が奇襲攻撃を行い、「日露戦争」が勃発します。

戦争は旅順攻略→奉天会戦→日本海海戦→樺太攻略と日本の勝利で進み、1905年9月に「ポーツマス条約」締結によりロシアと日本の講和が成立しました。

<ポーツマス条約内容>(Wikipediaより抜粋)

  1. 日本の朝鮮半島に於ける優越権を認める。
  2. 日露両国の軍隊は、鉄道警備隊を除いて満州から撤退する。
  3. ロシアは樺太の北緯50度以南の領土を永久に日本へ譲渡する。
  4. ロシアは東清鉄道(とうしんてつどう ロシアが満州北部に建設した鉄道路線)の内、旅順-長春間の南満洲支線と、付属地の炭鉱の租借権を日本へ譲渡する。
  5. ロシアは関東州(旅順・大連を含む遼東半島南端部)の租借権を日本へ譲渡する。
  6. ロシアは沿海州沿岸の漁業権を日本人に与える。

(※戦争は日本の勝利に終わりましたが、日本の軍事・財政力の限界であったため、樺太は南半分、賠償金の請求放棄という譲歩した内容で締結されました。戦闘の要所を日本が締めたので日本の勝利という形は取れましたが、やはり軍事力・国力の差を考えると持久戦は何としても避けたい、ということだったのではないでしょうか。)

ロシアに勝利したことで列強諸国は日本への評価を改め、不平等条約の改正や非白人国として唯一列強の仲間入り、後の五大国の一角を占めるという事にも繋がっていきます。

また、イギリスは日本と前回の日英同盟をより強化した「第二次日英同盟協約」を締結(1905年8月)、ロシアとも「英露協商」を結びます(1907年)。そして日本も1907年に「日露協約」を結び、ひとまず情勢の安定をみます。

<日本と韓国の関係>

ここまでの流れの中で、日本と韓国の関係はどう変化していったか見たいと思います。

・1904年1月21日

韓国政府が「戦時局外中立」を宣言。しかし、承認したのは清、イギリス、フランス、ドイツ、イタリア、デンマークのみ。肝心の日本とロシア、それからアメリカは不承認

・1904年2月23日

韓国の中立を認めない日本は漢城を制圧し、韓国政府に対して日本への協力を要請。2月23日に「日韓議定書」を締結。

<日韓議定書内容>(本書より)

①韓国は外国の侵略・内乱・皇帝の危機に対する日本の行動への便宜を与える

②日本は韓国の独立・領土保全を保証する。

③韓国政府は日本の承認なしに第三国と自由に条約を締結することが出来ない

・1904年8月

第一次日韓協約締結。

<第一次日韓協約内容>(本書より)

①韓国は日本政府の推薦する日本人一名を財政顧問とし、顧問の意見に従って財政事務を施行する

②韓国は日本政府の推薦する西洋人一名を外交顧問とし、顧問の意見に従って外務事務を施行する

・1905年7月

日本とアメリカの間で「桂・タフト協定」締結。アメリカのフィリピン支配に対し、日本が韓国を支配することの相互承認を行った。

・1905年8月

日本とイギリスの間で「第二次日英同盟」締結。イギリスのインド支配に対して、日本が韓国を指導・監理・保護する権利を相互承認。

・1905年11月

第二次日韓協約締結。

<第二次日韓協約内容>(本書より)

①日本政府は日本の外務省を通じて韓国の外交関係その事務を監督・指導し、外国在留の韓国人の利害を保護する

②韓国と外国との条約は日本政府の仲介を経なければならない

③日本政府の代表者として一名の統監を置き、統監は韓国の外交に関する事務を管理する

・1905年12月

第二次日韓協約に基づき、韓国統監府が設置され統監に伊藤博文が就任。韓国は完全に日本の保護国となった。

 

⑨朝鮮保護国化~日韓併合

上記の様な流れで「韓国の保護国化」体制が出来て以降、韓国内には「国権の回復あるいは独立・改革」、「日本との合邦」等を目指す運動が起こりました。

<国権の回復や独立・改革を目指す運動>

・「反日義兵運動」

1890年代に、「衛正斥邪」「反日反露」を掲げて武力蜂起を行った初期義兵運動の流れをくむ反日武装闘争。全国各地で抗日ゲリラ戦を行いましたが、数こそ多いものの統率の取れない義兵側は、訓練され近代装備を帯びた日本軍の組織的な討伐戦によって、併合前にほとんどが鎮圧されました。

・「愛国啓蒙運動」

1906年4月に創設された「大韓自強会」による運動。内に対しては愛国心を養い、外に対しては文明の学術を吸収し、教育推進と産業振興によって国力の自立増強を目指すという運動でした。しかし、次第に日本の保護政治に対する批判活動を活発化させていき、反日運動を激化させ始めたので、統監府による強制解散及び懐柔政策により活動の勢いを削がれていきました。

・「日韓合邦運動」

李容九をリーダーとする「一進会」が推進した運動。アジア諸民族の連帯をもって西欧列強に対抗するという「大アジア主義」を基に、日本を盟主とする大東亜連盟の結成によって、文化的・政治的・経済的に西欧列強の進出を斥け、衰退するアジア諸国の共同の繁栄を勝ち取ろうという理想により、日本と対等の国として合併することを目指す運動。1909年12月に、「韓日合邦を要求する声明書」を韓国皇帝純宗、韓国統監、韓国首相に向けて送りました。

結果としては、対等の国としての日韓合邦はならず、韓国は日本に併合されることとなり、併合直後に一進会は解散を命じられてしまいました。リーダーだった李容九は、「日本にだまされた」と言ったとも伝えられています。

(李容九 生年?~1912)

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<韓国併合までの流れ>

・1906年2月

日本公使館を統監府に改め、国内12か所に理事庁を、11か所に支庁を設置。3月に伊藤博文が統監府に入り、諸外国の公使たちが撤収。宮城を守備する一個大隊の陸軍兵力を除き、全ての韓国軍隊を解散させた。

・1907年6月

ハーグ密使事件が起こる。オランダのハーグで開かれていた第二回万国平和会議に高宗が密かに特使を派遣し、日本が韓国の主権を侵害していると訴えようとした事件。韓国に外交権がないことから出席を拒否され、日本は韓国に抗議、高宗は7月に皇太子の純宗に譲位、純宗が皇帝となる。

・1907年7月

第三次日韓協約締結。

<第三次日韓協約内容>

①統監は韓国政府が行う施政の改善を指導し、法令の制定や行政上の重要な処分について監督することができ、官吏の任免にも干渉することが出来る。

②従来からの日本人顧問を廃止し、統監府参与官の日本人を韓国政府の各部の次官に任命させる。次官以下日本人官吏の総勢二千名余。

・1909年6月

伊藤博文が統監を辞職。同年10月ハルピン駅にて暗殺される。(犯人は朝鮮人安重根が一般的だが、諸説あり)

伊藤博文は元々韓国併合には懐疑的な考えを持っていたとされていますが、反日独立運動である「義兵闘争」が激化するにつれ、併合することを肯定するようになったとも言われています。

時たま、「韓国併合に反対していた伊藤博文を暗殺したから、併合が加速化した」というような言説を見ることがありますが、これは少し言い過ぎの感があり、日韓のどちらの解釈でも、併合少し前には伊藤も併合に少なくとも反対はしていなかったようですね。

言うとしたら、「日本が併合の方針を固めてから伊藤を暗殺しても意味はなかった。そしてその暗殺により、既に決まっていた併合が早められた」ということでしょうか。

併合が成るか成らないかは、伊藤の生死とは全く関係が無かったということですね。

(伊藤博文 1841~1909)

 

・1910年8月

同月22日、「日韓併合条約」が調印される。29日に併合発布。

<韓国併合に関する条約内容>

「韓国皇帝が韓国の一切の統治権を完全かつ永久に日本国皇帝に譲与すること、日本国皇帝はこの譲与を受諾し韓国を日本に併合することを承諾すること」等。

これによって「大韓帝国」は消滅したが、韓国の皇族は王公族として遇され、処罰等の厳格な処置を受けることは無かった。

 

・1910年10月

朝鮮総督府設置。寺内正毅が総督に就任。

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ここまで流れを見てきましたが、ついに「大韓帝国」は滅亡、大日本帝国の一部「朝鮮地方」となり、日本の統治を受けることになりました。

「李朝ー大韓帝国」はなぜその独立性を保つことなく、日本に併合されてしまったのでしょうか。その点について、本書の著者である呉善花氏はどのように考えているのか、次で見ていきたいと思います。

 

「韓国併合への道完全版」を読んで⑹へ

 

 

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